小紫
延宝八年(一六八〇)二月のことであった。京都の久(ひさ)氏某(なにがし)という一代男世之介なみのプレイボーイが、三代目小紫の艶名を聞き及んで見ぬ恋にあこがれたが、親の目を盗んで百二十里のところをはるばる出向くわけにもいかず、悶々としていた。ある日、都で一番の太鼓持を呼びよせて悩みを訴えると、太鼓持が、「それほど恋しく思われるのでしたら、かの君の付差(つけざ)しなどいただかれて、憂さ晴らしをなさいませ」といった。付差しとは、口を付けた盃を相手に差すことをいう。そこで何某は、小紫の紋と自分の紋を比翼にして蒔絵した小盃を注文し、「この盃を持ちくだり、急いでお流れをいただいてこい」と、太鼓持を江戸へ発(た)たせた。吉原に着いた太鼓持は、とりあえず小紫を五日間揚げ詰めにするということにして、かくかくしかじかと小紫に訴えて、盃を差した。すると小紫は、「その久様というお方は、江戸でも隠れない粋人でいらっしゃる。そういうそなたも都一の太鼓持と承知しています。うそか真実(まこと)か存じませぬが、これほどまでに深い思いを、むなしくいやといっては、情(なさけ)知らずというものでしょう。とはいえこのまま戴いては、買われることを喜んで、逢いもせぬお客の盃を戴いたといわれ、人にそしられ、この身の面目もすたります。嫌うわけではありませぬが、この盃はさわります」といった。「さわる」とは、相手から差された盃に口つけず、そのまま返盃した後に受ける作法をいう遊里語である。さすがの目から鼻へ抜ける太鼓持も、道理に詰まってなっとくし、「この盃を持ち帰るまでは、大尽(だいじん)の揚げ詰めということにしよう」と、揚屋の亭主に三十日分の揚代を渡して、都へのぼって行った。その後、京都の大尽は、小紫のあっぱれな詰開(つめひら)き感心して、小判百両を贈ったという。(「元禄の演出者たち」 暉峻康隆) 天和二年正月刊の『恋慕水鏡(れんぼみずかがみ)』にある話だそうです。
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