キルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。
日本語で一般的に用いられる民族名キルギスは、ロシア語による民族名Киргиз(Kirgiz)に由来する。これに対し、キルギス語による自称はクルグズ(Кыргыз、Kyrgyz)という。帝政時代のロシア人はカザフ人のことを誤ってキルギスと呼んでいたため、本来のキルギスはカラ・キルギス(「黒いキルギス人」の意)と呼ばれていた。
ソ連時代にキルギスと他称されるようになり、対外的には“Kirghiz”と表記された。1991年のキルギス共和国独立後、キルギス語に準じた“Kyrgyz”の表記が使われるようになる。日本でも、これに応じて、中央アジア研究者を中心に、「キルギス」は他称あるいは誤称であり「クルグズ」と表記すべきであると主張が見られるが、一般には従来の慣習通りキルギスと呼ばれる。
なお中国では、「キルギス」を音写した吉爾吉斯をキルギス共和国のキルギスを指すのに用い、「クルグズ」を音写した柯爾克孜を中国の少数民族としてのキルギスを指す民族名として使い分ける。
歴史 [編集]
『史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアのイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。その後、同じ地域にいた民族として記録される契骨(けいこつ)もやはりキルギスの名を記録したものである。当初彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、インド・ヨーロッパ系であると言われている。しかし6世紀頃にテュルクである匈奴に服属して以降、急速にテュルク化した。
唐代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥、のちウイグルに服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、ウイグルを滅ぼした。しかし、ウイグルに代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀にチンギス・ハーンがモンゴル帝国を立てるとこれに服属した。
このモンゴル帝国の時代から15世紀頃までに、キルギスの一部は南シベリアを離れ、天山山脈の北西麓、現在のキルギス共和国の地に移住した。このとき、イェニセイ川の上流に残った人々が、ソビエト連邦によってハカス人の名(「黠戛斯」の現代中国語発音に由来する)を与えられた人々の先祖であり、天山に移った人々が先住の民族と混交して生まれたのが現在のキルギス民族であると考えられている。キルギス語は、先祖を同じくすると考えられるハカス人のハカス語よりも近隣に居住するカザフ人のカザフ語に近い。
中央アジアのキルギス人は、17世紀頃、近隣の民族の影響を受けてイスラム教に改宗したが、政治的には東に住むチベット仏教徒のモンゴル系遊牧民オイラトの立てたジュンガル帝国に服属した。ジュンガルの崩壊後は、最終的にロシア帝国の支配下に入り、1936年にソビエト連邦のもとで現在のキルギス共和国の前身であるキルギス・ソビエト社会主義共和国を立てた。
テュルク諸語のひとつ、キルギス語を話し、ほとんどがムスリム(イスラム教徒)である。宗派はスンナ派だが、イスラム化した時期が遅いため、シャーマニズムなどの自然信仰の要素も残存している。生業は元来はほとんど遊牧だったが、1930年代にソ連によって定住化政策が推し進められた結果、現在は多くが農業などに従事している。
叙事詩『マナス』がキルギス民族の文化遺産としてよく知られている。
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